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高橋 由一(たかはし ゆいち)

高橋由一
目次

高橋由一はこんな人

高橋由一
「高橋由一像」原田直次郎 東京藝術大学蔵
  • 幕末から明治にかけて日本洋画界の基礎を築いた、日本初の「本格的な洋画家」
  • 洋画(油絵)の写実性、記録性、堅牢性に気づき、日本の発展のために必要性を主張
  • 天絵社という画塾を創設し洋画家の育成を行う

代表作は「鮭」「花魁(おいらん)」(重要文化財 東京藝術大学蔵)

鮭
「鮭」
花魁
「花魁」

生い立ち

高橋由一は1828年2月5日(文政11年)生まれの江戸っ子
父親は下野(しもつけの)国佐野(栃木県佐野市)の藩士ですが、江戸詰めだったため江戸で育ちます
武家の出身のため幼いころから武芸をみっちり仕込まれます

一方で12歳ころから日本画の流派である狩野派の修行を行っています

最初の師匠に不満足で祖父に直訴し、狩野探玉斎という別の絵師に換えてもらっています
※探玉斎は狩野探幽から発祥した四大襖絵師の狩野家から出た実力派絵師

日本画の作品が今も広尾稲荷神社に作品が残っています

広尾稲荷拝殿天井墨龍図
「広尾稲荷拝殿天井墨龍図」広尾稲荷神社蔵

神社拝殿の天井画を描くという公的な仕事を20歳ころに対応しています
西洋画家である以前に日本画家だったのですね

由一は体が弱かったので、ある時ついに祖父から
「武術者になる望みは薄いから画家になるのがよいだろう」と言われてしまいます
ただ、実際に絵画に専念するようになったのは祖父が他界してからでした

洋画との出会い

1848年~54年(嘉永年間)に高橋由一は洋製石版画を目にし強い衝撃をうけます

ペリーの来航が1853年、ペリーの贈答品の中に「いしずりの画」もあったので、それを見たのかもしれません

実際に何を見たのか記録はありませんが、石版画のイメージを載せておきます

石版画
石版画のイメージ
ゆいち

なんじゃこの画は!本物にしか見えん!

輪郭を線で描く東洋の技法ではなく、グラデーションだけで明暗や立体感を出す写実的な描き方に心を奪われた由一
絶対に洋画を学ぶと心に誓うのでした

ゆいち

黒船に大砲、西洋の技術を取り込まなければ日本は危うい
日本を発展させるには写実的な洋画の技法が必要になる
はず
洋画を習得し広く普及させねば!

由一の思いとは裏腹に、それから約10年間、洋画学習の機会は得られませんでした

当時、写真も出始めていましたが、撮影に時間がかかり、白黒の時代
記録としてはまだまだ絵画に軍配が挙がる時代でした

洋書調所 画学局

ペリー来航の3年後、1856年に洋学研究教育機関として蕃書調所(ばんしょしらべしょ)が発足しました
黒船がきて江戸幕府も相当あせったのでしょう
西洋を研究しなきゃ!と江戸幕府が直轄機関を設立したのです

1862年に蕃書調所は洋書調所と改名し、その年に由一は画学局に入局することができました
由一35歳の年です

ゆいち

天にも昇る心地っす

洋書調所はその後、開成所→東京大学となっていきます

画学局に入局した由一は1つ年上の川上冬崖(かわかみ とうがい)から油絵の指導をうけます
ただ、川上冬崖の専門は日本画、指導は書物から学んだ技法を中心とするものでした

そもそも油絵の画材だけはなく西洋紙も鉛筆も満足にない状態
油絵の実践経験を積み、写実的な表現力を身に着けることができずにいました

由一の焦りはつのり、本物の油絵の技術を教えてくれる教師を見つけるために行動にうつします

ゆいち

そうだ、横浜に行こう!

ワーグマン

1866年、由一39歳の年、当時の横浜は外国人居留地
多くの外国人がいたので、横浜で油絵の教師を見つけようとしました

まずは横浜で「和英語林集成」という和英辞典を編集していた岸田銀次を訪ねます

岸田銀次は明治になってからは岸田吟香の名で知られる人物
後の西洋画家、岸田劉生は吟香の四男

吟香とともに横浜で西洋画の教師を探し回りますが見つかりません
別の知人からワーグマンというイギリス人画家がいることを聞きつけます

チャールズ・ワーグマン
チャールズ・ワーグマン 作者不詳

チャールズ・ワーグマンは1832年ロンドン生まれ(由一より4歳年下)
新聞会社に勤め、特派員の記者兼画家として1861年に来日

ワーグマンが江戸についた翌日に尊王攘夷運動である東禅寺(当時のイギリス大使館)襲撃に遭遇します
その時にワーグマンが描いた画がこちら

東禅寺事件
東禅寺事件

ワーグマンは漫画雑誌「ジャパン・パンチ」の挿絵を担当しています

ジャパン・パンチ

簡単な絵のことを「ポンチ絵」と言いますが、由来はこの「ジャパン・パンチ」です

ワーグマンの性格は天真爛漫
弟子をとることが嫌い、規則が嫌い、約束が嫌い
一方で音楽やシャレを好み、温和で親切
語学が堪能で、英語以外にフランス語、ドイツ語を話し、ラテン語、ギリシャ語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語も書くことができました
1863年には日本人と結婚しているので由一と出会うころには日本語も話せたはずです

ゆいち

ワーグマンさん、弟子にしてください!

わーぐまん

むぅーりぃー
弟子とるのきらいだしぃ

ゆいち

私が描いた油絵を持ってきています、見てください!
もっと上手くなりたいのです!

わーぐまん

(なかなか上手いな・・・)
でもYouの家は江戸じゃん?
ここまで習いに来るのはむりじゃね?

ゆいち

弟子にしてくれるなら歩いてきます!

わーぐまん

熱意すっご・・・

実際には片言の英語でのやり取りでしたが、何度も弟子入りを申し込み、やっと弟子入りを許可されました
それから3年間、東京から横浜まで歩いて通った由一は、みっちりと油絵の修行をしたのでした

天絵社(てんかいしゃ)

1867年に大政奉還が行われ、1868年から時代は明治となります
このころの由一は食べるにも困るくらい困窮していました

このピンチを救ってくれたのも岸田吟香
伊藤博文に手紙を出し由一に仕事を当てがってくれます

その後の由一は仕事を転々としつつ精力的に油絵を描き続けます
1872年に「花魁」、ウィーン万国博覧会に出品する作品を制作
その後も様々な仕事が舞い込んで、画名を上げ、経済的にも安定してきました

1873年に由一は日本橋浜町に住居と画塾を併設した新居をかまえています
ここで画塾天絵社をひらき生徒を集めて教え始めました

天絵社は油絵だけでなく日本画も教えていました
また女性の入門も許可していました

1876年からは天絵社で毎月展覧会を開くようになります
洋画を広めようとする由一の努力が垣間見えます

フォンタネージ来日

1876年にわが国最初の美術学校として工部美術学校が設立されました
絵画専門の美術教師としてアントニオ・フォンタネージが招集されています

フォンタネージ
アントニオ・フォンタネージ

フォンタネージは当時、由一より10歳年上の58歳
イタリアで古典的な風景画を学び、バルビゾン派の風景画家として名を上げていた

フォンタネージの作品
フォンタネージの作品

由一もフォンタネージから技術指導をうけています
この頃に描かれたのが代表作の「鮭」
やはり質感の出し方が格段に上達しています

高橋由一は鮭のような身近なものを描くことで油絵の写実性、記録性を訴えています

しかし、1877年に起こった西南戦争で政府が財政難になり、フォンタネージも体調が悪化したことから
1878年に帰国してしまいます

ゆいち

フォンタネージの帰国で工部美術学校は勢いがなくなってしまった。。。
工部美術学校に代わる洋画学校が必要だ!

由一は天絵社の拡張を始め、1879年に「天絵社」を「天絵学舎」と改めました

金刀比羅宮(ことひらぐう)

「こんぴらさん」の愛称で知られる金刀比羅宮は、江戸時代は「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」
神仏習合のお寺でしたが、明治政府が行った神仏分離政策により金刀比羅宮となりました

最後の住職である琴陵宥常(ことおか ひろつね)に代わり深見速雄が宮司として赴任
金刀比羅宮の立て直しを図っていました

琴平山博覧会

刷新事業の一つとして琴平山博覧会を開催
1873年の第1回に続き、1879年に第2回を開催
出品数 82,000点以上、入場者数 265,000人という賑わいでした

第2回目の出品者の中に高橋由一の名前があります

天絵社を天絵学舎に拡張しようとしていた由一は、金刀比羅宮に資金援助してもらおうと画策します
手始めに「二見ヶ浦」を金刀比羅宮に送ります

二見ヶ浦
「二見ヶ浦」

二見ヶ浦は三重県伊勢崎市の立石崎海岸
大小2つの岩をしめ縄で結ぶ夫婦岩で有名な名所

それから数か月の交渉により琴平山博覧会への出品が決定します
奉納を前提とした出品作品数 35点
表書院の円山応挙の襖絵の上に高橋由一の作品が並びました

ゆいち

天絵学舎の拡張のための資金援助549円をお願いします!

しかし、由一が受け取った金額は200円でした

こんぴら詣で

天絵学舎の拡張資金が足りない由一は1880年の年末に金策のため、こんぴら詣でを行います
「鯛(海魚図)」「桜花図」を別送しています

鯛(海魚図)
「鯛(海魚図)」
桜花図
「桜花図」
ゆいち

国と画学の発展のために2,800円の援助をお願いします

しかし、深見宮司からはあっさり断られてしまいます

資金援助の話とは別に油絵の制作依頼があり、由一は琴平で年を越すことになります
この時描いたのは「琴平山遠望」など7、8点

琴平山遠望
「琴平山遠望」

琴平を出発する数日前にも資金援助のお願いをしています

ゆいち

500円だけでも援助をお願いします
来年6月までにいただきたいです

これもあっさり断られてしまいます

失意のうちに東京に戻った由一は毎月行っていた展覧会を中止します
昨今の洋画の盛り上がりのために学生の絵画に興味を示さなくなったことが理由のようです

翌1882年に事実上の休校、1884年には廃校の届けが出されます
工部美術学校も1883年に廃校となっていて、洋画家たちには教育機関不在の時代が訪れます

東北開拓の記録画

洋画拡張運動に陰りが見え始め、資金援助も受けられなかった
由一は新たな事業として東北地方開拓の記録を申し出ます

この東北の旅で由一は十分な成果をあげている

宮城県からは「宮城県県庁門前図」「松島図」を委嘱(いしょく)され

宮城県県庁門前図
「宮城県県庁門前図」
松島図
「松島図」

山形県からは「山形市街図」を委嘱されている

山形市街図
「山形市街図」

このほかにも宮内庁に買い取られた作品もあり、成功を収めたと言ってよいでしょう

高橋由一は写真と違い油絵は、カラーで記録できる、引き伸ばすことができる、長期間保存できる、
と油絵の優位性を主張しています

その後1894年に高橋由一は67歳の生涯を閉じます
墓は広尾の臨済宗大徳寺派・祥雲寺内の塔頭 香林院にあり、「喝」と一文字だけ刻まれています

高橋由一は一貫して日本の発展のためには洋画の技術が必要だと考え、
あらゆる手を尽くして洋画の発展・普及に尽力しました
信念を貫く姿勢、なりふり構わず挑戦する気概については、ぜひとも見習いたいと思います


参考文献、著作権
「絵画の領分 近代日本比較文化史研究」芳賀 徹 朝日新聞社 1984年
「高橋由一 日本西洋画の父」古田 亮著 中公新書 2012年
Wirgman, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

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この記事を書いた人

絵をみるのは好きだけど何を描いてあるのかよく分からん、旅先で美術館に行くけどこんな状態だともったいない!ということでアートについて調べながら、アートメインで旅しています

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